僕は書く、ひたすら書き続ける、小説ではなく物語を、仕事や国、言語や学校と呼ばれる大きな街の外で。「旅費もパンも持たないヒッチハイカー」のように、圧倒的で絶対的な文章を追い求めて。そして「完成図の予想できないジグソーパズルの切れ端が物語のテーブルに敷き詰められて」ゆく・・・。新しいタイプのモノカキ、小松剛生よる鮮烈な辻原登奨励小説賞受賞作!。
by 小松剛生
カタカナは不思議だ。
ニッケルもスピードもアジもモノカキも、アイスコーヒーもビールも、アロエヨーグルトも、カタカナで書くとみんないつの間にかそれらがパズルのピースになってくれる。
僕はそれをボードにピンで貼り付けるだけだ。
お腹が減った。
何か食べたいけど物を買うお金がない。
「働きなよ」
君は呆れた顔をして言う。
「駄目だ、俺には物書きという仕事があるんだ」
「お金にならなきゃ意味ないじゃない」
――言い訳でしょ、そんなの。
君の理屈はよくわかる。
君が正しいことを言っているというのもよく理解できる。
けれどねえ君、正義や正論だけで生きていけるほど僕は強くはないのだよ。
不思議といえば、父が不思議な人だった。
僕の面倒をみて世話をする役目というのはもっぱら母親であり、父が僕のことを何もしようともせず何をさせようともしなかったこともあって、母は僕自身に対して余計に責任を感じたのかもしれない。
父は何もしなかった。
だから僕にとって、父とはよくわからない人なのだ。
たまにひょっこりと家に帰ってきてお金を置いてまた出て行く、そんな人だった。
別に「相手をしてくれなかった」などと憤慨するつもりは毛頭ない。
ただ、不思議だっただけだ。
子どもの僕からしてみればあの人はいったい何に生きているのだろうかと、あの人にも「思い出」というものがあり、過去というものがあるのだろうかと(もちろん今にして思えばあって当たり前のことなんだけど)考えるだけで、何だかこっちまで不思議な気分になってくるのだ。
ちょうど街路樹の一本も立っていない街を歩くときみたいに。
家を出るとき、最後に父は言った。
「帰ってくるときは呼び鈴鳴らしなさい。もうお前はこの家の人間じゃないからな」
あれから四年ほどの月日が経った。
僕はまだ呼び鈴を押してはいない。
*
ニッケルが仕事を紹介してくれる、というので月曜日の午後に会いに行った。
その日は雨が降っていた。
「ただし交換条件がある」
ニッケルがしゃべる度につい矯正器具に目がいってしまう。
その金属はどこか懐かしい匂いがした。
みずむらさき、とだけニッケルは言った。
「それを探してほしいんだ」
「どこに?」
「俺がこれから紹介する仕事先に」
嫌な予感しかしなかったが、選ぶ権利などなかった。
僕は散らばった歯みがき粉入りチューブを拾わなかったのだから。
テラス付きのカフェで待ち合わせた僕らは湿気を避けるようにして冷房の利いた店内で熱いコーヒーを飲んでいた。
窓ガラス越しに屋外エスカレータが雨にさらされていた。
僕は次々と傘がその上を滑っていく様子を思う存分眺めることができた。
――もし傘を売るのならエスカレータの上がいいな。
こんなにも色鮮やかな眺めはなかなか見れたものじゃない。
地上にいる人々に赤や青のこうもり傘を配り、買い手はエスカレータに手を伸ばす。
たまにつかみそこねたり。
――おっとと、お客さん早くしないとアタシがもらっちゃいますよ、この傘。
――ああ待ってください。
心地良い緊張感じゃないか。
雨に降られまいとお客たちは傘を買おうとして、そのために雨に降られるのだ。
もしかしたら皆、雨に濡れるのはそんなに嫌っていないのかもしれない。
僕たちがお金を欲しいと思うのは雨に濡れたくないからじゃなくて、傘が買えなくなることが嫌だからなのかもしれない。
とにもかくにも仕事をすればお金がもらえるはずであり、当面の心配事が消えるわけだ。
傘だって買える。
「みずむらさき、って何なんだ」
「わからない。『みずむらさき』が水紫なのかミズムラサキなのかすら、わからない。ハッキリしているのはこれからアジが向かうであろう職場にあるってことだけだ。そいつを探し当てて俺のもとへ運んできてほしい」
難問だった。
何かを探すというよりも、とにかく探し続けると言ったほうがいい。
宛先の書かれていない手紙よりもやっかいな代物だ。
それではまるで、小説じゃないか。
とにかく探し続けるなんて行動は、まるで人生のようじゃないか。
「探してくれるか?」
「探すだけなら」
ニッケルは十分だ、と言ってその矯正器具を光らせた。
六時間後、僕は新宿から中央線と青梅線を経由して一時間ほど電車に揺られた末、西東京外れの町に降りた。
ニッケルから渡された紙切れに目を通す。
――駅の改札口を出て十分ほど線路沿いに左方向に歩く。高架下に行き当たったら上に通っている街道を右に曲がる。そのまま行った右手のコインパーキングエリアにいれば迎えが来るよう手配しておく。
言われるがままに進んでいて、自分が久しぶりに表の空気を吸っていることにやっと気付いた。
書を捨てて町へ出よ、なんて誰かが書いていた気がするけれどあれは誰だったか。
あいにくと僕はその本を読んでいなかった。
どちらかというと僕は雪に圧されて城に辿り着けない測量士のKのように、ただただ生活とは呼べない蛇行を繰り返している。
アブのように?
――いや、僕は。
「アジ様でいらっしゃいますでしょうか」
迎えに来たのは背広に身を包んだ細身の男だった。
「ニッケル様より話は伺っております。どうぞこちらへ」
僕らは街道沿いをしばらく歩いた。
通りを白のセダンが走り抜けていく。
一瞬だけ車のバックライトに照らされた男の背中はエンジン音が遠くに消えてもまだしばらく光っていた。
やがて男は気づかないかもしれないほどに細い路地へとほぼ直角に曲がり、つられるようにして僕も後に倣う。
ひとつの路地に出くわした。
人がひとりやっと通れるくらいの小さく細い道だった。
「ここが私どもの仕事においての採用試験になります」
とつぜん男が語り始めた。
「この道を通れないくらいに恰幅良いお方には申し訳ないことではございますが、不採用との判断を下しております」
「ひどい話だ」
「左様、その通りでございます。ひどい話です。しかしながら仕事とは、お金を稼ぐとはそういうことなのではないでしょうか。なにせ太ってらっしゃるお方には少々きつい業務ですから」
確かに男は細かった。
つま先から頭の先へいけばいくほど順々に細い。
地面を這う影は針のように尖っている。
どこかの音楽家が思わず皿に落としたくなるほどに。
「そんなにきついの?」
「仕事自体は決して難しいものでも厳しいものでもございません。ですがこういった種類の仕事は確認事項が多いものでございます。不摂生に暮らしてらっしゃるお方々には退屈にも窮屈にも感じられるやもしれません」
「ひどい話だ」
僕は言った。
「おまけにひどい偏見だ」
「ごもっともでございます」
男が一度振り返って頭を下げたおかげで、その身はますます細く縮こまっていった。
「しかしながらこれが決まりなのです」
着いた先には隙間風のようにそびえ立つ建物が、暗くて影だらけの地面にもうひとつ濃い影を生やしていた。
「こちらです」
再び僕は男の後ろをついていく。
途中すれ違った人たちと軽く会釈を交わした。
――こんばんは。
――お体にお障りありませんか。
――何かあったらどうかご遠慮なさらず申しつけ下さい。
それらは僕が想像していたよりもずっとずっと普遍的な行いに見えた。
こんな場所に建っていなかったら、どこにでもいるマンションの住人たちだった。
「女性もいるんだね」
「別に力仕事ではありませんので。女性的良心を持ち合わせていたほうが適していると思われる業務もございます」
「ひどい話だ」
僕はもう一度言って、男ももう一度「ごもっともで」と頭を下げた。
そこで立ち止まった。
他と同じように鼠色をしたドアがあった。
中へ入ると暮らすには不自由しない程度の家具が用意されていた。
ソファー、テレビ、本棚、ベッド、冷蔵庫。
冷蔵庫。
「冷蔵庫がある」
「もちろんでございます。決められた間隔で当局より適当なお飲み物、食べるものを補充しております。また中六階には食堂もございます」
便利なシステムだ、と僕は思った。
それは巨人のように住人たちを見下ろしていた。
アイロンは?
アイロンはなかった。
どうやらここではしわを直す必要がないらしい。
「最初の仕事はこれより九時間後に始まります。三〇分前になりましたらこちらのお部屋までお迎えに上がりますので、それまでごゆるりとお過ごしください」
鼠色のドアが閉まると、僕はソファーに崩れ落ちた。
よほど疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまったようだった。
(第05回 了)
* 『切れ端に書く』は毎月13日に更新されます。