僕は書く、ひたすら書き続ける、小説ではなく物語を、仕事や国、言語や学校と呼ばれる大きな街の外で。「旅費もパンも持たないヒッチハイカー」のように、圧倒的で絶対的な文章を追い求めて。そして「完成図の予想できないジグソーパズルの切れ端が物語のテーブルに敷き詰められて」ゆく・・・。新しいタイプのモノカキ、小松剛生よる鮮烈な辻原登奨励小説賞受賞作!。
by 小松剛生
マンションを出た僕たちはカタモト氏の運転するワンボックスカーに乗って、八王子市内の街に出た。
車の中は行ったこともないような湖の臭いがした。
「今日はここらで作業しよう」
「外に出るんですね」
「出ない仕事ももちろんある。私が担当しているのがたまたま外なだけで」
コインパーキングの日陰部分に車を停めたカタモト氏はついてくるように促すと、野猿街道沿いに歩き始めた。
脇に続く路地を覗いていく。
客の入っていない中華料理屋と民家の間に折れ曲がっている路。
サンシャインクラブという店名だけでは何をやっているのか判断のつかない美容院、古代数学者のようなしかめ面をした子供たちが机に向かっている学習塾、の間にある路。
いつ来ても満室のランプが点灯しているシティホテルと、水音だけが新鮮な川を挟んた一本道。
「君も通ってきただろう、採用試験に使われている道はひとつだけじゃないんだ。面接官はいろんなコースで新人を試す。そのための路地を見つけたり名前をつけたり、まだ使えるかどうか確認したりする仕事だ」
渡されたばかりのノートを開いてみる。
――ときどき帰り道。
――千代の水たまり。
――気まずいポテトサラダの作り方。
――フルーツナイフの危機。
――クジラの嘘。
「なんですかこれ」
「みんな退屈を紛らわすためにいろんな名前を考えるんだ。次にこの仕事を任される人がこの名前に顔をしかめるのを想像して楽しむのさ」
今、僕はどんな顔をしているのだろうか。
「大丈夫、最高のしかめ面をしている。みんな喜ぶ」
褒められているのに満ち足りない不思議な気分だった。
その旨もカタモト氏に告げてみる。
詩的だねと、氏は言った。
「路足りない、なんて」
知っているような、知っているふりをするのが上手いだけのような、雲みたいに掴み所のない表情は父親のそれに似ていた。
――ああ、親父もこんな仕事をしていたのかな。
どうりでわからないはずだ。
「じゃあ始めようか」
僕に任されたのは「確認すること」だけだった。
次の新人を判断するための路地を覗き込み、ノートにあったいくつかの名前にチェックを入れた。
ここは?
よし。
ここも。
よし。
ここ。
よし。
僕のノートには「よし」という文字が並んだ。
「ご苦労様」
夕方になり、全ての路地に「よし」と書く頃になってようやく一日の仕事分が終わった。
カタモト氏とはマンションの手前で別れた。
「あ」
――いつからこの仕事をやっていて、そしていつまで続けるつもりなんですか。
ということを訊きそびれてしまった。
まあいい。
次会うときに忘れていなければいい。
かちかち。
腕時計が鳴っていた。
さて。
部屋に戻って僕はゆっくりと考えることにした。
幸いこの部屋には一人掛けのソファーがあり、材質こそよくわからないが柔らかすぎず硬すぎず、何か考え事をするにはうってつけのソファーだった。
昔読んだ『行方不明の時間』という詩に、人は誰でも行方不明の時間が必要とのことが書かれていた。
今の僕にはまさにそれが必要なときだ。
路に迷うために目を閉じて、ボードに貼りつけられたメモのことを考えてみることにした。
ニッケル。
チューブ入り歯みがき粉。
細い路地。
確認すること。
イーライ・テリー式腕時計。
カタモト氏。
みずむらさき。
僕はニッケルに頼まれていた捜し物のことをようやく思い出した。
一体どうすればいいのやら。
探す手がかりといえば「みずむらさき」という言葉だけ。
文字どおり雲をつかむような話で、たとえつかめたとしてもすぐに消えてなくなってしまうような気がした。
なにせ相手は雲だ。
いや、みずむらさきだ。
僕はこうしてみずむらさきという、雲に似た何かをつかまえようとしていとも簡単に迷うことに成功する。
「つかまえた」
目を開けるとすぐ隣には今朝の女の子がいた。
行方不明になることはなかなか難しい。
「時間がないわ」
彼女は立ち上がって言った。
「今夜ここを出る。準備はできた?」
「準備も何も、今初めて知ったんだけど」
「あら、今朝言わなかったっけ」
君はたっぷりの脂肪分を摂って文句を言う暇も隙も与えずに出ていっただけだ。
二の腕は僕よりもずっと頑丈そうにしなっていた。
「準備も何も僕はここに来たばかりだ」
「ここでいう準備っていうのは心構えのことよ。どうする? ここで一生システムという名の巨人に従って生きていくか。それとも」
巨人。
なぜ彼女がそのことを知っているのか。
それは僕の頭の中でだけの存在だったはずだ。
「それとも?」
それには答えることなく「早く決めてね」と彼女はデニムパンツの裾をまくって膝の手前までもってくる。
「でも給料は」
差し出された茶封筒には一枚の紙幣が入っていた。
「どうする?」と彼女。
「ひとつだけ訊かせてくれ。なぜそんなに急ぐのかってことを」
ため息を吐かれてしまった。
雲のようにつかみどころのないため息だった。
「歩きながら話しましょう」
(第07回 了)
* 『切れ端に書く』は毎月13日に更新されます。