僕は書く、ひたすら書き続ける、小説ではなく物語を、仕事や国、言語や学校と呼ばれる大きな街の外で。「旅費もパンも持たないヒッチハイカー」のように、圧倒的で絶対的な文章を追い求めて。そして「完成図の予想できないジグソーパズルの切れ端が物語のテーブルに敷き詰められて」ゆく・・・。新しいタイプのモノカキ、小松剛生よる鮮烈な辻原登奨励小説賞受賞作!。
by 小松剛生
こんばんは。
こんばんは。
今日も暑いですね。
そうね。
ときどきすれ違う住人たちと適当に会釈しながら僕たちは階段を降りていく。
何でもないことなはずなのに自分たちが今、彼女の言うところのシステムから逃げているという立場を意識するだけで妙な緊張感が背筋を走った。
「おかしいと思わなかった? ここに案内した面接官たちは確かに細いけれどここの住民たちだったり仕事の人は一概にそうとは言えないでしょう。それに向こうから食事制限を強いているわけでもない、太ることはタブーとはされてないのよ」
「正論だね」
僕の厭味はあっさりと無視された。
「あの路地はここに入るための道じゃないのよ」
「じゃあ何」
「ここから出られないようにするための細い路なのよ」
建物を出ると辺りは夜だった。
生ぬるい風が気持ち悪い。
彼女について暗がりの草むらの中を、身をかがめて歩く。
なんだかいつも誰かの後についてばかりいるような気がした。
たぶん気のせいではないのだろう。
「もし出られなくなったら」
「よくわからない仕事を一生わからないまま続けることになる。それが人生といわれたらそれまでだわ。そういった種類の人生があることも理解している。でもそうじゃない人生ももちろんある」
嫌いなのよ、と彼女は吐き捨てるように言った。
「選択肢も与えずにいつの間にか歩きやすいレールを用意して、ね。こっちのほうがいいですよなんて甘い声でささやいて何も知らない人間を勝手気ままに扱うのは。誰がどう言おうとあたしは嫌なの。だから何も知らないでここに来た人を出口まで案内する」
「さっきから君が言ってた「時間がない」ってのは」
彼女はうなずいた。
伸びた葉先が女の子の手のひらを切ったのか、赤い血が滲み出てきているのを僕は見た。
冷たい現実があり、草の甘い匂いがした。
どこか懐かしい甘さだった。
「あたしじゃなくて、あなたの時間のことよ」
誰かの視線を感じた。
巨人はもう、逃げようとする僕たちを見つけてしまったのかもしれない。
この前面接官に導かれた入り口の路地までようやくたどり着く。
改めてみるとやはり細い。
僕はなんとか通れそうだけど彼女は。
「あたしはここまでよ。もうすぐ警備の連中が動き出すわ」
「でも君だってさっき、さんざんシステムとやらを嫌ってたじゃないか」
「そうよ」
そして彼女は言った。
「いろんな人生があるの」
あたしがこれからどうするかなんて、あなたは知るべきじゃない。
知るべきではないことがあることを、僕はそのとき知った。
ぱたん。
どこかで物語が綴じられる音がした。
「僕が知りたいことであっても?」
「あなたが知りたくても」
イーライ・テリー式の腕時計が二人の手首でカチカチと音を立てていた。
カタモト氏がなぜあの仕事につくようになったのか、とうとう訊きそびれてしまったなと僕は頭のどこか片隅で考えていた。
「どうする?」と彼女。
「行くよ」
僕は最後に彼女の全身を眺めてみた。
熱を帯びた柱を思わせる身体つきはとても魅力的に見えた。
今さらといえば今さらな話だ。
「ありがとう」
それだけ言って僕は物語を遡るようにして、来た路を戻っていくことにした。
――あ。
大事なことを思い出した。
「ねぇ」
「なに」
まだ女の子はそこにいた。
「僕は大切な用事をやり残していたんだ。まだ戻れないよ」
「それはなに?」
「みずむらさき。それを探してほしいと頼まれているんだ」
「あら、と初めて彼女の驚いた声を聞いた。
「それってあたしのことじゃないの。水村早希っていうのよ」
そういえば僕は彼女の名前すら知らないままだった。
大切なことはいつだって後回しにされがちなのだ。
こつん。
靴のつま先に何かが当たった。
「それをその人に渡して。あたしのことを探そうとしてくれたその人に」
僕は彼女が転がしてきたものを拾い上げた。
イーライ・テリー式の腕時計で、僕のそれより傷が多かった。
「急いで」
途端に女の子の姿は見えなくなった。
僕はこの前来たばかりの道を走った。
こんなに駈けたのはいったいいつぶりだろうか、というぐらいに懸命に走った。
例えばこれがハコだとしたら、あの大股な歩幅で飛ぶように走る景色が生まれただろう。
残念ながら僕はアジだ。
周りから見ればお世辞にも見栄えが良いとはいえない格好でぎくしゃくと走る。
やがて暗さの中に風が通るのを感じた。
気がつけば目の前を白のセダンが駆け抜けていった。
どうやら大通りに出たようだ。
*
「で、これがその女の子の時計なわけか」
ニッケルは僕が見たことないくらいに丁寧な様子で人差し指に腕時計をぶら下げた。
「これでいいのかな」
仕方ないさ、とニッケルは呟くだけだ。
「なぁアジ。その子は何か言ってたか」
「最後にね。あたしのことを探そうとしてくれた人に、という言い方をしていた。少なくとも水村早希はニッケルの行動に感謝していたんじゃないかな」
「そうかな」
「そうだよ」
世間は夕方だった。
いつもの輝きを見せることもなく、ニッケル製の矯正器具は鈍く夕日に照らされていた。
日暮れが早まり、人足が急ぐ帰宅の波の中で僕たちだけが止まっている。
かちかち。
彼女の歴史が静かに秒針を刻んでいた。
(第08回 了)
* 『切れ端に書く』は毎月13日に更新されます。