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Clik here to view.子供の頃、帰国しようとしない父親の身代わりのように母親といっしょに夏を過ごしたスペインの田舎町、エル・ポアル。けだるいシエスタの、まどろみに包まれたような父親の故郷。僕はエル・ポアルに、父の、そして自分のものでもある故郷に惹き付けられ、十三年の時を隔ててそこを再び訪れる・・・。日本文学研究者であり、詩人、批評家でもある大野露井の辻原登奨励小説賞受賞作!。
by 大野露井
部屋は三階にあった。模造大理石の階段を四角く一周すること二回、木製の扉に金文字で番号が打ちつけてある。中に入ると、食卓からすこし離した椅子に腰かけた祖母が、かすかな距離のあいだで忙しく首を上下させていた。背中はすこし曲がり、目にはいよいよ老いを自覚しはじめたひとの怯えのようなものが宿っていたが、肌はきめこまかく照り輝いて艶があった。要するに祖母はますます年を取ったが、なかなか元気そうだった。
「おばあちゃん」
僕は祖母を抱き口づけた。
「あんた、十三年ぶりだよ」
「そうだね」
「スペイン語できるようになったかい?」
僕は祖母が何を言っているのか、だいたいはわかった。幸い、フランス語とスペイン語はかなりよく似ているのだ。だがここで「うん」と言うわけにもいかない。「いや―だめだね」と諦めたような顔に向かって囁くしかなかった。
掻かずにはすまないとわかっていた恥を掻いたところで、僕は突然の再会によって封じ込められていた疑問へと立ち戻った。いったい、どうして祖母がここにいるのだろう? しかしこんなとき、すぐにカルメンに訊いてみても仕方がないことは、経験からわかっていた。自分から言い出さないということは、いまはその話はしたくないということなのだ。そこで僕は手みやげを取り出した。可愛らしいとも稚拙とも言える梅の枝が描かれた茶器だった。いかにも日本からイギリス経由で来た僕らしいだろうという洒落心もあった。
「あんた、そんなものにお金なんて使わなくていいのに」
祖母カルメンは叔母カルメンを経由して確実に意見が届くようにしたが、決して悪い気はしていないようだった。祖母は贈りものなど滅多にもらわないだろうし、もしいま娘と同居しているのだとすれば、居場所のなさに苦しんでいるはずだ。それに、金など使っていなかった。よく紅茶を買いに行くコヴェント・ガーデンの店で特売になっていたそれは、ポンド高騰の最盛期だというのに、二千円もしなかった。店で働いているのはたいてい日本人の留学生で、客の二割ほども日本からの観光客だったが、彼女たちは僕に対しては決して日本語で話しかけなかった。
茶器は居間の一方の壁を占領する食器棚の硝子戸のなかに収まった。なかなか上等な棚だった。見回してみると、どの家具も決して値が張るというわけではなさそうだが、新しく、機能的で、清潔だった。それからカルメンに案内された洗面所も、滞在のあいだ僕の寝室になるカルメンの部屋も、どこもかしこもさっぱりした陶器と石材と木材とで組み上がっていた。カルメンの愛車と同じように、スペインではあらゆる大衆向きのものが、一昔まえより上等になっているようだった。
それから従弟のハイメが学校から戻り、簡単に挨拶をすませると、もう食事の時間になった。僕はハイメがエル・ポアルの居間に据えられたサークルでつかまり立ちをしている姿を、一度だけ見た記憶がある。だがそれはカルメンが送ってきた写真のなかでだったのかもしれない。とにかく僕たちには面識がなく、言葉も通じないので、それ以上は話しようがなかった。
「おばあちゃんがずいぶんたくさん作ったのよ」
とカルメンはそれが悪いことであるかのように言いながら、台所と食卓を往復した。たしかに、嘘ではなかった。それはかつての献立の再現でもあり、強化でもあった。つまり僕はまたしても「さて大量のパンを片手に、イタリア風に言えばコンキリエ、つまり貝の形のパスタを浮べたスープを飲み干すと、昼食の献立の目玉が出る。またしてもイタリア風に逃げることを許していただければペンネをチーズで挟み固く焼き上げたラザニアや、ジャガイモを大量に包み込んだまろやかなオムレツ、そして今度はフランス風に逃げなければいけないが、野菜をとかしこんだ噛みごたえのあるキッシュなど」を食べる機会を得たのだ。いや、正確に言えば、最初のイタリアは完全に撤退していたが、第二次のイタリアとオムレツは健在、さらにフランスは勢力を四倍にしていた。すなわち今回はじゃがいも、ほうれん草、茸、じゃがいも、茄子、じゃがいも、鶏肉、じゃがいも、たまねぎ、じゃがいも、そしてじゃがいもを使った四種のキッシュが、決して大きくはない食卓を圧倒したのである。
僕のお腹はあっという間に膨れた。祖母はもとより食が細くなっている。ハイメも思春期のくせに、馬のように食べるというわけではないらしい。
「ばあちゃん、口!」
小食だから暇なのか、ハイメはこんな風に、砂時計の砂に合わせて落ちてゆく祖母の下顎が上顎から離れ、口のなかのものがほんのちょっと覗くたびに、鬼の首を取ったように注意した。ハイメは間違いなくカルメンの息子なのだ。あの女たらしカルメロの血を引いているだけに顔こそ優しげだったが、彼の暗い目の底には母の血管から流れ来んだ憎悪がいまにもこぼれ落ちそうに溜まっていた。カルメル山に現れたマリアを記念する名を持つカルメン。第三のカルメンであるカルメロ。その息子ハイメ。その名の源流にあるのはヤコブという名、つまりイサクの子だ。彼には峻厳すぎるだろうか。だがヤコブの語源が「足を引っ張る者」であることを僕は知っていた。
もう満腹していたのだから、さっさと寝室に引っ込んでしまうこともできた。しかし不快な光景を最後に一日を終えることは避けたかった。僕はいよいよスペイン語の訓練をして来なかったことを後悔した。そしてスペイン人のように、とくに父のように、湧水のごとくこんこんと森羅万象に関する自説を開陳し、その場の誰にも発言権を与えないことに快感を見出すような、そんな性格でなかったことを後悔した。仕方なく、満腹のまま、しばらく黙って食べつづけることにした。すると突然、祖母がこんなことを言った。
「あんたの歯並び、カルメンにそっくりだね」
何を言い出すのかと思ったが、カルメンが仕方なく口を開いて見せると、僕も認めざるを得なかった。カルメンの口蓋に収まっているのは、まぎれもなく僕の歯だった! 二本の前歯が後ろに引っ込んでいるので、角度によっては他の歯が出ているように見えるのだ。
するとカルメンにも虫歯がないのだろうか、と僕は考えた。昼寝をしないことと並ぶ僕のもう一つの自慢は、一度も歯医者の世話になったことがないということだった。歯並びが同じなら、歯の性質も似ているということは充分に考えられる。自分でもしつこいと思うほど長く、僕はそんなつまらない問題に拘泥していた。間違いなくカルメンと遺伝子を共有しているのだという事実をつきつけられて、落着きを失ったのかもしれない。
だがこの指摘のおかげで、もう食べるのをやめても気まずい思いをせずに食卓に残れることになった。また沈黙してしまえば元の木阿弥なので、僕は思い出すままに質問した。
「昔、よくおじいちゃんが言ってたでしょう。コリョンズ―」
ハイメがここで吹き出したので、質問は中断した。それでもう答えはわかったようなものだったが、カルメンはともかく解説した。
「それは男性の―部分のことよ」
もっと正確に言えば、フランス語で同じものを意味する単語との共通点から推して、それは睾丸のことに違いない。どうしていままで気づかなかったのだろう。つまりかつて数えきれないほど聞かされた祖父と祖母のやりとりは、おそらくこんなものだったのだ。
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「あんた、そんなに腹を立てなくてもいいでしょうに」
「おれが腹を立てようと立てまいとおれの勝手だ」
「おお、やだやだ。何だってあたしはこんな男と結婚しちまったのかね」
「うるせえ。まったく、どいつもこいつも金玉野郎だ!」
何のことはない。それは世界中、とくに欧州と米大陸で観察される、文章に秩序をもたらし、昂る感情を清算し、発言に伴う不安感の駆逐を援護するような、親しみやすく庶民的な間投詞なのだ。カタルーニャの農民が睾丸に言及すること以上に自然なことなどあるだろうか? 祖父はくしゃみをしてさえ、まだ唾も出きらないうちに「コリョンズ」と言ったものだ。
こうして僕はすっかり満足し、ようやく気分よくシャワーを浴びることができた。浴室はとても近代的で、浴槽はなかったが、段差のないシャワー室は快適だった。
「ポアルの家にもこれと同じのを作るのよ。だからおばあちゃんは家にいるの」
カルメンはふとその気になったらしく、出し抜けに説明した。
「それから、家が遊んでるのはもったいなから、人に貸してるの」
「誰に?」
「ドイツからきた学者よ。地質学者とかいう人たち」
「地質学者?」
カルメンは製薬会社の秘書だったから、下宿人もその絡みで斡旋してもらったのかもしれない。それにしても、改装するために祖母を立ち退かせた家を人に貸し、家賃で改装費用を捻出してやろうという根性は、もはやなかなか見上げたものだった。こんなにも打算的な人物が、本当に父の遺産を、素直に渡すだろうか。そもそもあの父に、遺産などあったのだろうか。カルメンはまだ切り出さない。つまり、いまはその話はしたくないということだ。
寝室に入った。煙草が喫いたかったが、許可を求めるのも面倒だったし、下まで降りる羽目になるのもごめんだった。それに駐車場の少年たちに再会してしまうかもしれない。かつてエル・ポアルでときおり煙草をふかしていたカルメンは、いつの間に禁煙したのだろうか。あるいは新しい恋人の影響なのかもしれない。ホアンというその男には、明日会うことになっていた。もちろん、何も期待していなかった。そしてようやく、しかもあっけなく解けた「コリョンズ」の謎を思い出し、僕はカルメンそっくりの歯並びを一人であけっぴろげた。
朝、僕はカルメンが冷蔵庫に入れておいた冷めたコーヒーを飲み、戸棚からマドレーヌを出して食べた。皿に盛って食卓へ運ぶのも馬鹿らしいので、盗み食いのような有様だった。そのマドレーヌは十三年前から十八年前にかけても何度か食べた味だったが、そこからはなんとなくエル・ポアルの家の食卓の心象、たとえば舅の家で暮す疲れをコーヒーで癒そうとする母の尖った口元などが浮かび上がってくるだけで、劇的な発見はなかった。マドレーヌをコーヒーにつけて食べるのも悪くなさそうだったが、遊び心に身を任せる気分でもなかった。
祖母は居間の椅子で、やはり頭を小さく振っていた。本来ならエル・ポアルの、天辺を丸く調えた木戸の前か、あまりに陽射しが強いときならその内側で、何十年も坐ってきた木椅子に坐っているべきところを、中途半端に拓けて雑然としたモデルサの集合住宅の一室に閉じ込められているので、祖母の頭は行場を失って揺れているのかもしれない。坐っている祖母の目の前にいつもあったあの通りはなく、知り合いが通ることもない。いま祖母の目の前にあるのは食器棚か、食卓か、あるいは格子のはまった小さな窓だけだった。
ソファに腰かけると、僕は目の前に並んでいるモデルサの町の地図や、自治体が配っているらしい情報誌をぱらぱらめくった。
「あんたのパパもいつも本を読んでいたよ」と祖母は言った。「パブロは読まなかったけどね。パパはいつもあんたみたいに坐って、本を読んでいたね」
僕は本を読んでいるつもりはなかったが、他に答えようもなかったので「そうなの」と返事をした。祖母の言ったことは本当だった。父の寝床の傍らには、いつでも文芸誌が積まれていた。ただ僕が本を読むようになったのはずいぶん大きくなってからのことで、その頃にはもう父は家にいなかったから、父がどんな作家を愛していたのかは知らない。僕の知っている父は、文学よりも商売について考えるのに忙しかった。
「さっきまで雨だったみたいだね。今日はあんまり天気がよくないよ」
祖母は窓の外を眺めて言った。ところがカルメンが午前の仕事を終えて戻ってくる頃には、空はすっかり晴れわたっていた。いや、この国では、空は元に戻っていた、と言うべきだろう。僕たちは昼食に出かけることになった。
祖母は模造大理石の階段を四角く二周するのに、たっぷり五分を要した。娘と孫との生活を切り上げて村に帰るまでの間、祖母はまだ何度もこの階段を昇り降りしなければならない。戻りたくもない部屋に戻るために五分もかけて階段を昇る気持は、ちょっと想像がつかなかった。
車は高校に寄り、ハイメを拾った。町から離れてゆく幹線道路の路肩に、目指す食堂はあった。僕は先に降り、助手席から息づかいを荒くして降りて来た祖母に腕を貸して、席に着くまで恋人のように歩いた。
僕は祖母の勧めに従って、丸々と太って甘く、バターの香りが喉の奥まで滴るような烏賊のオーブン焼きを食べ、祖母と従弟の真似をしてたっぷり一皿のカラコレス、つまりエスカルゴ、つまり蝸牛を食べた。殻からずるずる出てくる形のない肉を呑み込むことを、僕はやっと楽しめるようになった。カルメンは肥りたくないのか、ほとんど何も食べなかった。
食堂は工員や家族連れで賑わっていたが、僕たちの食卓は優等生の晩餐会のように静かだった。それはおそらく僕という客人がいるからではなく、祖母がいるからなのだろうと思われた。カルメンは何事につけ祖母の発言を封じようとしているようだった。祖母が何か言ったのに、それを僕には伝えてくれない、という場面も何度かあった。なるほど祖父が死んだいま、カルメンには母親の言うことを聞く義務はないと思われたのだろう。父親の存命中でさえ結局は我を通してきた娘が、どうして母一人の言葉に耳を傾けるだろうか。そしてそんな娘を母に持ったハイメは、どこで祖母に敬意を抱くきっかけを見つければよいというのだろうか。
祖母は慣れきっていた。祖母の生涯は沈黙の生涯だと言ってもいい。祖母は典型的なスペイン農村の女だった。結婚すれば夫に殴られることを覚悟しなければならないし、夫が子供たちをベルトで殴ることを黙認しなければならない。そして夫が死ねば、こんどは夫に遣わされた死神が訪れるまで、やはり黙って待っているしかないのだ。夫が躾に失敗した娘、夫に言わせれば母親が甘やかしたせいで言うことを聞かなくなった娘を、夫の死後にどうして矯正することができるだろう。
食事が終わり、車は再び走り出した。工事中の交差点で、黒人が交通整理をしている。バルセロナならともかく、こんなところでアフリカ系の移民を見たのはこれが最初だった。この地域のほとんどの人にとっても、黒人との出会いはちょっとした事件だったはずだ。父も、イギリスに渡るまで黒人を見たことがなかったと断言していた。おかげで黒人を見るたびに「あ、黒んぼ!」と、検閲の対象になりかねない言葉で騒ぎたて、家の近所にあった「くろんぼ」というレストランのまえを通りかかったときには、指をさして笑い出す始末だった。そんな父を養ったこの土地に、いまではアフリカのみならず中国やロシアなどからも人間が集まっていた。大昔から「よそ者」「侵略者」「仇敵」の代名詞だった回教徒たちも、すこし数を増やしたようだ。それほどスペインは安い労働力を必要としていた。
モデルサの外縁に沿って展開する住宅街の一郭で、僕たちは車を降りた。閑静な、という表現はしっくり来ない。まだ街路樹すらなく、コンクリートの冷たい道路が剥き出しになった両脇に、よく似た家々が建ち並んでいる。カルメンがその中の一軒の扉を叩くと、威勢のいい金髪の奥さんと、大人しい、にこにこしたお婆さんとが出てきて、「よく来たよく来た」と囃した。その歓迎の文句は僕と同時に、むしろ祖母に向けられていた。祖母はせっかく同じ町にいるというのに、おそらく滅多にアパートから出ないのだ。それはあの階段のせいでもあり、カルメンがなかなか送迎の役を買って出ようとしないからでもあるだろう。
「さあ、入んな入んな!」
金髪の奥さんは魚河岸の仲買人を思わせる声で言い、玄関前の階段に身を乗り出して祖母を引き上げ、ばんばんお尻を叩いた。
この家の主であるお婆さんは、他ならぬ祖父の妹、つまり僕の大叔母だったが、僕はたぶん一度しかお目にかかったことがなかった。いつかの誕生日に、小さな革のブリーフケースに入った一組のドミノをくれたお爺さんが、このお婆さんの他界した夫だったはずだ。お婆さんの娘である金髪の奥さんは、僕にとっては「いとこちがい」とか「いとこおば」とか、もはや日常では使用しない言葉でしか表せない続柄にある人だった。しかもこのマリアとはこれが初対面だったので、もう他人のようなものだった。マリアが祖母のお尻を叩いたとき、僕は片足で踏ん張って腕を伸ばしているこの奥さんのお尻こそ叩いてみたいものだと思ったのだが、他人なら問題はないだろう。
大叔母の一家は完全にエル・ポアルから引き上げていた。古い家と農地を処分した金で新築の一軒家に移り住むことができた。この家の美しさ、つまり庶民的でありながらそれなりに高級感を漂わせることに成功しているさまは、カルメンのアパート以上だった。居間の壁に沿って飴色をした波形の食器棚がはめこまれ、その裏側を、これまた飴のように湾曲した手すりに守られた階段が横断していた。居間は吹き抜けで、黄色いタイルをしきつめた床には黒いソファが並び、硝子を載せたテーブルが中央に陣取っていた。床には髪の毛一本落ちていない。
とはいえ、この最後の特徴は、スペインの農村地帯に時代の波が覆いかぶさる以前からのものだ。結婚し、夫に殴られ、子供たちが殴られるのを見守るほかに、女たちにはもう一つ重要な任務があった。それは徹底した清掃で、たとえ道路や畑の土ぼこりが木戸のきわまで降り積もっていたとしても、玄関から先には塵一つ存在してはならないのである。女たちは食材の下ごしらえ、食事の支度、食後の後片付けのほかに、一昔前まではマヨネーズでさえ自分で攪拌してこしらえることを期待されていたが、あとの時間帯は床に這いつくばったり壁を這ったりして、抜け毛や垢や雲脂や埃、そしてときには血痕を、見つけしだい除去していたのである。
「ここがこんなに汚いじゃないか」
父にそうどやされたとき、自身の潔癖ぶりにひそかな自信を抱いていた母は度肝を抜かれたそうだ。家のなかに「こんなに汚い」場所があるとは思えなかったのである。だが父が問題にしていたのは、洗面所の蛇口と洗面台が接合しているわずかな部分だった。「綿棒でこすれ」と父は女々しいほど的確な指示を与えた。父の育った家でも、父の幼友達の家でも、蛇口と洗面台の接合部分が汚れているなどという醜聞は許されなかった。妻を持つ一人前の男の家は、どこもかしこも磨き抜かれていなければならない。
居間では相変わらず祖母と大叔母が、ときおり大声で笑いながら義理の姉妹の愛情に磨きをかけていた。カルメンと金髪のマリアはそれぞれの母親の脇に控え、ときおり意見を放り込んだ。僕とハイメは、どちらも静かにしていた。
父が離婚後にファックスで送ってよこした報告によれば、ラウラ以上の癇癪持ちとして注目を集めたハイメは、まだよちよち歩きのうちからスーパーで暴れまわって店員から白眼視されていたそうだ。だがいま僕の目の前にいるハイメは前髪を目のそばまで重く垂らした、どちらかといえば華奢な坊やだった。思春期のただなかにいる男子らしく、内面ではいろいろと鬱屈した感情を抱えていたのかもしれない。だが外から見るかぎりは何事にも無関心な様子だった。
一方、カルメンの証言はどうか。カルメンは毎年、あるいは隔年のクリスマスに祖母の希望を容れて郵送して来るカードのなかで、いかに息子の英語教育に熱心であるか、そしてそれがいかに成果を上げつつあるかを書き立てていた。ハイメに会って十秒もしないうちに、それがまったくの嘘であることが明らかになった。ハイメが英語を話せるとしても、それはまだ「こんにちは。僕はハイメです。スペインから来ました。ダンスが好きです」という程度のものでしかない。もっとも僕はハイメと会ったときに「こんにちは。僕は君の従兄です。日本から来ました。本を読むのが好きです」と話しかけたわけではないので、未だに僕たちのあいだに会話らしい会話はなかった。要するに僕も、ハイメに無関心だったのだ。
だがそんな事情は金髪のマリアにはどうでもよいことだ。僕と従弟がどれほど異なっているにせよ、いまマリアの目に映っている二人はどちらも沈黙していた。そこで言葉の不自由な遠方からの客人と、まだ大人の話に入れない少年のために、マリアは退屈しのぎを提案した。
「息子のバギーに乗ってみる?」
僕とハイメはマリアについて車庫に降りると、専門学校に通っているというマリアの息子のバギーを押し、通りを挟んで広がる開発予定の空き地まで歩いた。
「免許は持ってる?」
そう訊かれ、反射的に「はい」と答えたものの、実のところ僕はマニュアル車の仕組などわかっていなかった。スペインの車輛、それもバギーが、オートマチックであるはずがない。しかし国際運転免許証には、マニュアル車を運転するなとは一言も書いていなかった。
「まず教えるから。乗って」
マリアはジーンズにぴったり収まっている豊かな球を二つに開いてバギーにまたがると、後部座席をばんばん叩いた。むらなく染まった金髪がふくらみ僕を手招きした。スペインには生来金髪の女性はあまりいない。マリアも脱色しているのだろう。僕には髪の美しさを女性の美しさの小さからぬ基準にする平安貴族のような癖があったので、不用意に髪を染めている女性はそれだけで見下してしまう。それだけに、ときおりこの奥さんのように染め上がりが美しく、地の色より染めた色のほうが顔かたちや肢体に相応しい場合を発見すると、胸をひろげて讃えたくなった。
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マリアはこれみよがしにスロットルを回し、加速の方法を教えた。砂利をけちらしながら空き地の向こう岸に近づくと、今度は減速して左右にうねり、ハンドルを切るこつを伝授した。車輪が大きく、ハンドルを切った分しか回らない。マリアは最後の直線にさしかかると強く脇を締め、「つかまって」と振り返りながら、手首の関節がゆるすかぎり握っているものをひねった。空気抵抗を減らすような工夫が施された車体ではないので、気を抜くと上体が大きくのけぞった。僕はカタルーニャのレコンキスタに参加したテンプル騎士団員のような気分だった。お互いの尻と腹をくっつけ合い、一頭の馬にまたがっているのだ。馬が疲れれば、相棒と同じ椀から汁をすすり、狭いテントで床を共にする。地平線の先に、ハイメが見えた。あるいは隠れ回教徒かもしれない。このまま馬上から剣を振り下ろして首を刎ねてやろうか。
だがそうはせずに、今度は僕がハイメを後ろに乗せ、空き地と家の周りを一周した。僕はひどく退屈し、退屈したまま居間に戻り、祖母にとっては楽しいに違いないこの訪問が、早く終わればいいと思った。何のためにこんな所で我慢して坐っているのだろう。それがあるかないかもわからない父の遺産に釣られた結果なのだと気づくと、嫌な気分だった。帰りの車では一言も口をきかなかった。
アパートへ着くと、祖母は息をふうふう吐きながら階段を昇った。体力の払底した老人の、あの肺の奥から何かを引きずり出してくるような呼吸。それでも義理の妹とたっぷり時間を過ごした祖母は、たった三分で階段を昇りきってしまった。叔母のところで暮らすようになってから、あんなに誰かと話したり笑い交わしたりしたことがなかったのかもしれない。
(第6回 了)
* 『故郷-エル・ポアル-』は来月から毎月06日に更新されます。
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