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『故郷-エル・ポアル-』(第09回)

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子供の頃、帰国しようとしない父親の身代わりのように母親といっしょに夏を過ごしたスペインの田舎町、エル・ポアル。けだるいシエスタの、まどろみに包まれたような父親の故郷。僕はエル・ポアルに、父の、そして自分のものでもある故郷に惹き付けられ、十三年の時を隔ててそこを再び訪れる・・・。日本文学研究者であり、詩人、批評家でもある大野露井の辻原登奨励小説賞受賞作!。

by 大野露井

 

 

 

 

 店に戻ると、階上の事務所にいたパブロ叔父さんが狭い階段に悲鳴を上げさせながら現れて、僕を手招きした。小さな洋服店のことだから、事務所と言っても屋根裏の壁に板を水平に打ちつけて作った机と、壁とのあいだに挟むようにして置かれた椅子があるだけだ。叔父さんは机のうえに用意してあった書類入れを僕に渡した。

 「君のお父さんが最後に持っていた書類だ。いま開けてみるかい?」

 僕はそれをすこしだけ開いて、中身を上から覗いてみた。そこには印刷された書類や手書きのメモ、それにきっと壊れているに違いない古臭い小型の計算機、そして「すぐに覚えられる」と謳ったロシア語の教材テープが入っていた。

 「いま見るかい? それともあとにするかい?」

 せっかちな叔父さんは大声でまた訊いた。怒っているのではない。早く答えを知りたいだけだ。この大柄で人一倍物静かな男でさえ、たった十秒の沈黙に業を煮やすのだから、その叔父さんを震え上がらせた父が、母とまともに生活できるわけがなかった。

 「あとにします」と答えると、叔父さんは紙袋をくれた。

 階下では、ちょうどカルメンと二人の従者が、どやどや入ってきたところだった。

 「ほら、見て。ホアンはあなたのパパの服を着てるのよ。あの女、勝手にやっちゃうんだから」

 こう耳元で報告したラウラは、早くもあからさまに気分を害していた。

 確かにホアンのまとっている衣服、とくにジーンズと革のジャケットは、いかにも父が着そうなものだった。息子の僕から見ても少々意外なのだが、父はお洒落に無関心というわけではなかった。そして父が興し、やがて潰した事業の半数ほどは革製品と衣類に関連していたので、父は仕入れから卸し、あるいは販売までの商品の流れに手を突っ込み、眼鏡にかなった品を引き上げて横領することができた。父が家を出て行ったときも、あとに残ったがらくたで使い物になったのはハンドバッグが三個と、何枚かの高価なシャツくらいのものだった。ホアンもまた、中古とはいえ何通りにも着回せるだけのズボンやシャツを手に入れた。ホアンは父が息を引き取った場所、つまり最後に所有していたものすべてを置き去りにした場所の近くで生活し、父の妹と交際していたからだ。それは役得だった。

 ホアンは僕にアメリカ人のような陽気な挨拶をしてからパブロ叔父さんに何か捲し立てていたが、聞き耳を立てる気にはならなかった。そして誰の思いつきなのか、集合写真を撮ることになった。僕が見事な作り笑いを浮べ、ロサ叔母さんも甥のハイメの肩に手を置いて和やかな家族写真を演出しているというのに、ラウラ一人はレンズの奥にいる余所者のホアンに射るような眼光を向けていた。

 それから僕たちは、すぐ近くの一品料理のレストランまで揃って歩いた。

 「さっき、ラウラは煙草をたくさん喫ったか?」

 歩調の巡り合わせで隣りに来たとき、パブロ叔父さんが尋ねた。おどおどしながら娘を心配する、普遍的な父親の姿だった。

 「五、六本ですかね」

 僕は叔父さんの心配を取り除くべく、それがいかにも少ない数であることを声音で強調してみた。しかし考えてみれば、そんな気遣いは無用だった。若かりし叔父さんのポートレートは、まさしく愛煙家のそれだったではないか。

 「そうか。おれは五箱喫ってたよ。もうやめたがね!」

 ご覧の有様である。五箱はなかなかの強者だ。「百本か。三島は六十本、芥川は百八十本だっけ。それから中也は確か、数え切れないんだった」僕は頭のなかで文学青年のノートをおさらいした。かつてのパブロ叔父さんに言わせれば、五、六本などは朝のコーヒーを待ちながら喫う分量であって、まったくもって健康への脅威ではなかった。

 もちろん、晩餐は退屈だった。僕はただ烏賊や貝をしゃぶり、雑音を聞いていた。斜向かいのロサ叔母さんやラウラとはときおり目が合ったが、僕はカルメンとホアンに挟まれていたし、向かいに坐っているパブロ叔父さんはニヒリストの気があり、煙草の話がすんでしまった以上、あまり話そうとしなかった。

 結局この場を救ったのもラウラだった。宴も酣の頃、ラウラは僕を食後の一服に誘ったのだ。僕は紙袋をパブロ叔父さんに預けて立ち上がった。ラウラも立ち上がったが、そのとき椅子の脚が巻き込まれて倒れそうになったので、僕は「ウイ!」と言って止めた。これは覚えたての間投詞だった。

 「明日エル・ポアルへ行くのよね」

 外に出るとラウラは寂しそうに言った。

 「そうだよ」

 「それで明後日はロンドンに帰るのよね」

 「うん」

 そう、明後日には帰るのだ。いったい何をしに来たのだろう。百万円のためなのだろうか。

 「悪魔やホアンといると本当に疲れるわ」

 「退屈するしね―」

 そのときラウラの背後に突然ハイメが近づいて来た。年齢の近い僕たちのところへ来たほうが楽しいはずだという子供じみた判断をしたのだろう。僕は話題を変える必要を感じた。ハイメは僕が煙草を喫っているところをはじめて見たので、わずかに驚いたふうだった。しかし僕はもっと驚く羽目になった。

 「あんたね、おばあちゃんをもっと大事にしなさいよ」

 ラウラは話題を変えるどころか、最も核心的な言葉を、直接ハイメに突き刺したのだ。これもまた、スペイン人にとっては当然の会話術である。驚く僕のほうが、打算的で臆病ということになるだろう。広場には僕たち三人しかいなかった。まだ三月なので日は短く、辺りを鼠色の闇が覆っていた。通りを挟んで、いくつかの人影が帰宅を急ぐようだった。

 やがて皆がぞろぞろ出てきた。それぞれがそれぞれと忙しく言葉を交わした。

 「明日はエル・ポアルに行って、帰りにアントニオにも会いましょう」

 カルメンは唐突に予定を告げた。もう出発するという合図なのだろう。カルメンはあたかも僕とラウラの距離が縮まりすぎることを警戒しているようだった。僕はアントニオという隣家の息子の顔を、すぐには思い出せなかった。

 僕はロサ叔母さんにまずキスをして、それからラウラに向き直った。ラウラの大きな、ともすると暗くなりがちな目は、すっかり涙に濡れていた。

 「この子、もうこれでお別れだと思ってるのよ。でもあなたがロンドンに帰る日に、もう一度食事を一緒にすることにしたからね」

 ロサ叔母さんは、一人娘が可愛くて仕方がないらしかった。無理もない話だ。僕も今日一日で、これだけ従妹が可愛くなったのだから。

 「じゃあ、またあさって」

 「昔ね、夏のあいだは、登山客のために山で雑貨屋をやっていたの」叔母さんは思い出したように言った。「パブロと、手伝いにきてくれたあなたのパパと三人で。まだラウラは生れてなかった。あの頃がいちばん楽しかったわ」

 若い頃の父のめまぐるしい経歴の一体どのあたりでそんな牧歌的な青春が送られたのか、僕にはちょっと計算がつかなかった。それを問い質そうにも、もう悪魔は僕を連れ去っていた。車のなかで何度も鎌首をもたげたのは、果してそのとき父とパブロ叔父さんのあいだに、恋の鞘当てはあったのだろうかという疑問だった。

 

 

 

 次の朝、僕はやはり冷たいコーヒーとマドレーヌを食べ、これから甦るであろうエル・ポアルの記憶を弾丸のように頭のなかに装填した。そして祖母と不自由ながら言葉を交わしている最中、直接それを打ち明ける勇気のない僕は、最大限の努力で言外に次のような意味を匂わせた。「話は聞いたよ。もうわかったよ」と。祖母はまるでお天気の話をしているときみたいに、静かにうなずくだけだった。

 「運転手みたいで嫌だから」というカルメンの要望で、僕は助手席に坐った。もはや会話の種は尽きていたが、それでよかった。思ったよりも早く、車はあの懐かしい墓地に横づけされた。

 僕はこれまで墓地のほうしか問題にしたことがなかったが、ロンドンからの出発まえの調査で、どうしてこの墓地が村の中にある教会から分離したのかを知っていた。エル・ポアルの教会は十八世紀の半ばに、かつてアストゥリアス公カルロス二世に仕え、後の継承戦争でも勲を立てて家名を上げたポアル侯爵の指揮で建てられたのだ。それが、ちょうど父の生れた頃、村の人口が増えて教会を増築する必要があったので、もうミサに来る必要のない死者たちの領域を村の外に移したのである。

 墓地は十三年前よりも新しくなっているように見えた。エル・ポアルではじめて目にする春の陽射しのせいかもしれなかった。屋内と違って、ここは掃除が行き届いているわけでもなさそうだったが、相変わらず石の壁が並んでいるだけなので、そもそも掃除をするほどの物質の堆積もなければ、人影もなかった。

 カルメンは何歩か先をゆき、参るべき墓のまえで立ち止まった。それは昔、祖父が「予約した場所だ」と言った、チョークで家の名字が描かれていた場所とは違っている気がした。確かなのはその四角い墓標に飾られているのが祖父の晩年の写真であるということだ。小さな銅の花瓶に、白と緑の草花がもたれていた。それは摘まれた花にも許されるはずの瑞々しさを失い、これ以上不可能なほど渇き切っていたが、愛らしさはまだ残っていた。

 祖父の写真はカメオ状に切り抜かれ、背後の石に刻まれた三重の十字架を背負っていた。写真の下には家の二つの名字が刻まれ、この墓が祖父と祖母のものであること、そしてもし他所に墓がないのなら、二人のあいだに産まれた子供たちであれば、祖父を頂点とするこの一家の墓に入る権利があることを示していた。墓標は扉になっており、左端の把手を引けばまるで寝室に入るように内部へ入ることができるようになっていた。もちろんそのためには横になり、柩に納まっていなければならないが。

 ところでこの墓のどこに父がいるのか、僕にはしばらくわからなかった。それもそのはずで、正面から見ても父の所在は明らかにならないのだ。父の名前を刻んだ銀の板は、石の壁とそれをくり抜いて作った扉のあいだに、直角に貼られていた。あまり強い陽がさしこめば反射が父の名前を隠蔽してしまうかもしれないし、もし墓守が気まぐれに扉を開けば、板は扉の陰になってしまう。そのような位置に墓の入居者の名前を示すことは、ありきたりの習慣に過ぎないだろう。日本の墓だって、歴代の死者を確かめるためには墓の横や後ろにまわって、苔むした墓碑を指でなぞってみなければならない。しかしこの場合に限っては、それはなんだか家族に溶けこめないまま過ぎた父の一生を象徴しているようだった。家族どころか、人生からさえも父は放り出されたのだ。若い折の成功と、急速な衰退と、不摂生と早世。父を殺したのは自己への過信だったと言えばそれまでだ。だが父の一生は、半世紀をかけた緩慢な自殺であったようにも思える。僕はおそらくはじめて、父を気の毒だと思った。銀の板には父の名前が正しいカタルーニャ語の綴りで黒く塗られ、その下に父が死んだ日付、そして「行年五十一」と記されていた。

 「もういい?」

 カルメンが訊いた。叔母にしてみれば、好きでもない兄の墓を好きでもない甥っ子がいつまでも眺めているのは心地よい風景とは言い難いだろう。もっとも僕も、それ以上の滞留は望まなかった。もういい? たしかに感傷はもう充分だった。

 カルメンは曾祖母までの代の墓を素通りして、さっさと車に乗った。この場所に何がしかの恐怖を感じているのかもしれない。ホアンと入籍するのでもない限り、家庭を築いたパブロ叔父さんと違って、カルメンもこの墓地に葬られることになるからだ。二人が入籍することは、この先もまずあり得ないだろう。夫婦という言葉が財産を山分けする関係を指すなら、叔母はホアンと結婚しても決して得をしない。母子家庭のまま手当を受けとっているほうが、はるかに経済だろう。だから地上での時間が過ぎれば、叔母の肉体は自分の命令に従わない両親や兄と共に、永遠の時を刻まなければならない。

 死者のための土地からわずか一分で、僕たちは生者の領域に入った。村に入るとすぐにあの小さな広場、あの石柱が目に入った。そして十二番地、僕の家の扉は、やはり天辺を丸くしたまま立っていた。

 ところがそれはもう朽ち木のような、乾いた牛の血のような色をした扉ではなく、滑らかに磨かれて耳垢のように光っている、機械で精確に切り出された扉に変わっていた。そしてよく見ると、かつてはただの一枚の石壁に過ぎなかった家のファサードは、上半分で卵色を見せびらかし、下半分を化粧煉瓦でおめかししていた。しかも僕の家だけではなく、隣りのアントニオの家も、もうこの世の人ではないザラザラおばさんやアダンさんの家も同様だった。どの家も妻たちの艱難辛苦の清掃でたどりついた無垢な屋内にふさわしい、清潔な外観を手に入れていた。だがそれは不自然で、わざとらしい佇まいにも見えた。新しいエル・ポアルの家並みから照らす色の取り合わせや石の組み合わせはいかにもグエル公園を擁する地方にふさわしく、なんだかどの家も、外国にあるスペイン料理屋の風情を放っていた。

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 つまりこんな小さな村でさえ、経済原理に塗り替えられてしまったのだ。小川、馬糞、魚、アルファルファ、兎などの匂いで構成されていたスペインの隅っこは、いまやよそゆきの香水をまとっていた。だが村がきれいになるというのに、一体誰が文句をつけるだろうか? 村人たちには屋根と仕事があれば充分なのだ。たとえば、エル・ポアルの正式な紋章を彼らの何人が知っているだろうか? 真珠で飾った王冠の下に井戸を配した紋章。そんな紋章など、ほかの多くのものと同じく、腹の足しにはならない。

 この井戸の紋章についても、出発前に調べておいた。実はポアルとは何のことはない、井戸のことなのだ。この村の辺りには、遥かイベリア人の時代から人間が住んでいた。ローマ人も、西ゴート人も、サラセン人も住んでいた。そこへあの愉快なテンプル騎士団がやってきたのが十一世紀のことだ。コルブ川、つまり大鴉川の支流のおかげで土地は豊かな水を秘蔵し、ちょっと井戸を掘ってやればすぐに飲料水が手に入った。お互いの尻と腹をくっつけ合い、一頭の馬にまたがって敵情を偵察にきた二人の騎士が、一つの椀から汁をすすることも簡単だった。そんなわけでこの村の一帯は大昔から「井戸の土地」と呼ばれていたのだ。

 こうして村の知識を仕入れてみると、かえって村はよそよそしく感じられた。感傷的になるのはやめたはずだったが、すこし寂しい気がした。僕はとても自分の家に帰ってきたのだとは思えなかった。だがそれがまやかしに過ぎないこともわかっていた。僕はもう十三年前までのようにあたりまえに生きているのではなく、選択して生きていた。必要もないのにロンドンで暮し、秋になれば必要もないのに東京へ帰るのと同じように、僕はいま必要もないのにエル・ポアルに来ている。もう土地や人々は黙って僕を抱いてくれはしない。

 それでも扉の向う側は、十三年前とすこしも変わっていないように見えた。僕と祖父はまさにこの場所で日本語とカタルーニャ語の辞書を作りあげた。僕はそこであの猥雑な巨人の顔を、言葉で組み立てられたアルチンボルドや歌川国芳の絵を目の当たりにしたのだ。もうこの家のどこを探しても祖父がいないのはわかりきっているのに、もし祖父がいま酸素のチューブをしたがえて現れても、僕はあまり驚かなかったかもしれない。ただ目を凝らしてみると、十三年の時は順調に流れ、床や壁をすこし黒ずませていた。それに、もっと大きな変化があるにはあった。この家には、いまドイツの学者たちが暮しているのだ。かつて肥料やじゃがいもの袋が積まれていた床には、標本として捕獲された小動物を保存しておくための冷凍庫が幅をきかせていた。そのなかにどんな動物の死骸が入っているのか、僕には見当もつかない。おそらく山のほうで、狐狸の類を捕獲してくるのだろう。しかしエル・ポアルで動物といえば兎、鳩、それに猫で、それ以外はお呼びではない。

 階段を昇り白い扉を開くと、家のなかもやはり古いままで、すぐ隣りの浴室も、まだ快適に作り替える作業が始まっている様子はなかった。それもそのはずで、洗面所が使えなければ、地質学者たちはこの家を借りなかっただろう。風呂を改装するついでに家を貸すというカルメンの説明は、だからあからさまに矛盾している。学者たちが冷蔵庫に入り切れないほど小さな獣どもを捕え、いいかげんエル・ポアルの暮しに飽き、葡萄酒ではなくビールが飲みたいと故郷に帰った後も、祖母はさらに浴室の工事が終わるまで娘の家に厄介にならなければならないのだ。

 「これは私の甥なの」

 僕の推理の進展など露知らず、カルメンは物音に顔を出した学者の一人に僕を紹介した。浅黒い肌の、巻毛の若い男で、後ろには眼鏡をかけた同僚もいた。叔母は僕がロンドンからここへ来たこと、ここへ来たのはずいぶん久しぶりであることなどを、訊かれもしないのにしゃべっている様子だった。

 「やあどうも。あなたは何をしている人なのですか」

 僕がろくにスペイン語を話さないことまで聞き出したのか、痩せた巻毛の学者は英語で質問した。言うまでもなく、ドイツの学者の英語はスペインの田舎者よりも上等だった。

 「大学を出たところです。大学院に進もうかどうか、一呼吸おいているんです」

 問われるままに答えたが、「何をしている人か」は本当ならこっちの台詞だった。二人の学者の背後には曾祖母の写真が残っていた。ここは曾祖母が使っていた部屋だ。その狭い部屋に大きな男が二人で、学者を名乗り何をしているのだろうか。ここはどちらかと言えば僕の家だ。しかし彼らを責めることはできない。

 廊下に立ったまま居間のほうを見渡すと、食卓の上には調査結果をまとめる作業が常に進行中であることを示す様々な小道具が散らばっていた。飲みさしのコーヒーは乾き、彼らが捕獲した動物の蹠から払い落とす土のようになっていた。深いところまで噛みつくされた林檎の芯は、奇妙な筆記具のようにも見えた。書類は積み重なり、崩れ、その上にまた積み重なっていた。それらは何ら進捗を保証するものではない。サグラダ・ファミリアの構内にも、いつでも猫車や鶴嘴が転がっているが、この教会はいつまで経っても完成しないのだ。

 ドイツ人たちはたまたまこの家を借りたに過ぎない。その家にはたまたま、ひょっとすると家主になっていたかもしれない、東洋の血が交じった留守がちの若者が関係していた。そんなに僕が何をしている人か知りたいのなら、すべて話してやってもよかった。そしてさっさと仕事をすませて出て行かないと、哀れな年寄が一人、それだけ不快な生活を続けることになるのだと釘を刺しておいてもよかった。

 だがカルメンはこの家にもあまり長居したくないのだろう、僕をそそくさと屋根裏部屋へと促した。僕にはいままで一度も屋根裏を訪れた記憶がなかったが、そこは物置だった。どこの力持ちが手を貸したのか、あのシクロモトールがあった。さすがに赤い光沢は鳴りをひそめ、慎重にふりつもって薄い紙のように見える埃に守られていた。その横には農具が並んでいた。鋤や鍬、それに桶のようなものが、ただ邪魔な道具を並べてあるにしてはあまりに見事に配置されており、物置はそこだけ中世の静けさを匂わせていた。このような農具を見たこともない人間がダリの描く松葉杖の柔らかさに歓声をあげるのは、ほとんど馬鹿げたことのように思えた。そしてそれが祖父の使っていた物なのか、それとも祖父の祖父が要らないからとしまいこんだものなのかは、もはや永遠の謎だった。カルメンに訊いても「知らない」という答えが返ってくることはわかりきっていた。

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 そう決めつけられても仕方のないほどカルメンは何につけ無関心だったが、ここに僕を案内したのには一応の理由があったらしい。僕は差し出された封筒を受取った。

 「パパの写真よ」

 正確には、それは父の幼少期からロンドンでの学生時代までを写した、十二枚の写真だった。さらに厳密を期せば、三枚は白い縁のある白黒写真で、これらが最も古く、次の三枚は縁のない白黒写真、そして最も新しい、六枚の色付き写真が続いていた。はじめの六枚はいずれもエル・ポアルで撮られたもので、その半数は僕がいま立っている場所のすぐ下の通りが舞台になっていた。窓を開けて見下ろせば、そこに五歳くらいの父を筆頭に肩を組んで並ぶパブロ叔父さんとカルメンのまぼろしが見えたかもしれない。僕は父の目の下のくまの濃さに驚いた。商売を破綻させ、寝室にひきこもっていたときよりも濃いくまを、この田舎の少年は涙袋に鈍く沈ませていた。そのかわり、彼は屈託のない、もはやわざとらしいくらいの笑顔を見せていた。自分が四十年後にいやと言うほど睡眠をとり、おかげでくまは薄くなる一方で、笑う材料に事欠いて眉間の皺を塹壕のように黒々と誇示するようになることを、彼は想像だにしていない。まして半世紀も経たないうちに、自分が写真を撮った場所から四半キロの場所で永遠の眠りに就くことになるなどとは、夢遊病で村を歩き回ったときですら、夢にも思わなかっただろう。次の写真で十五歳くらいになって、寄宿学校から帰省しても田舎者に囲まれるだけでやることもなく、仕方なしにシクロモトールで無意味に通りを往復している彼も、それに気づいている様子はない。彼はすぐに都会へ戻り、大きな仕事をなすべく勉強を続けるのだ。だから、片手に酒杯を持ち、もう片手に煙草を挟んで写真に収まることに抵抗のない年頃になった三枚目の彼は、なおさらそんなことを考えるとは思えない。彼は田舎者が着ないような、そのためにかえって田舎者であることが露見してしまうような奇抜な模様のシャツを着て、伸ばした髪を油で撫でつけている。いわば大物の遍歴時代、ちょっとした寄り道なのだ。

 だが結局、父は大物にはならなかった。父が体得したのは大物の風格を真似る技術だけだった。父の半世紀の人生には肉体労働という選択肢はなかった。父はよく、睡眠とうたた寝と食事と排泄とを二日かけて行うことを周期的に繰り返していたが、その作業ですっかり疲弊してしまった。それはうたた寝と食事と排泄のあいだ、そしてことによっては睡眠の最中にも、考えることをやめなかったからだ。ところがこの知的労働は、商売に関してはほとんど成果を生むことがなかった。文芸誌を読んでいた父、機嫌のよいときには手の込んだ冗談を言った父のほうが、僕にはずっと自然に見えた。

 屋根裏の壁には空箱で作った即席の書架があり、そのなかには父が使っていた辞典の類が詰まっていた。それは試験でよい点を取り、この小さな村から脱出するための道具でしかなかったのだろうか。僕は『カタルーニャ語活用辞典』というのを抜き出して手に取った。古いが、あまり垢染みてはいない。静けさに誘われて、窓を開けてみた。僕の身長は成人した父と同じだった。視線の高さも、だから同じということになる。だが僕には父の見た世界は見えなかった。カルメンはそっぽを向いていた。僕は手の中の辞典を、上衣のポケットに滑り込ませた。

 「もう行きましょうか」

 「ええ」

 そう答えて振り返ったとき、いくつもの箱や袋が石垣のように組合わさっているなかに、僕の名前を書いた大判の封筒があった。

 それは何なの、とどうしてすぐに訊かなかったのだろうか。だがカルメンが何人もいるように、僕と同じ名前を持つ人間がこの家のまわりに何人もいる可能性は充分にあった。寡黙な人間としてやり過ごしている僕がいまここでにわかに主張すれば、カルメンは喜々として僕を強欲と思うだろう。そうなれば僕はカルメンの同類になってしまう。

 しかもカルメンは外に出ると車のトランクを開けて、雑然と積まれた荷物のなかから一本の万年筆を取り出したのだった。

 「これ、渡しておくわ」

 もし屋根裏で「あの封筒は? 僕のものではないの?」などと質問していたら、カルメンは気分を害してこの万年筆を渡してくれなかったかもしれない。

 現金や写真の入った封筒と同じように、それは何の前触れもなく僕の手に入った。万年筆は黒い厚紙の箱のなかで、赤い、安っぽいびろうどに包まれていた。僕はこれより上等な万年筆を何本か持っていた。

 「従兄弟たちも持ってるのよ。パパが配ったの」

 この父からの最後の贈り物は謎めいていた。先ほどの『カタルーニャ語活用辞典』のほうがずっと実用的とも思われた。それでもこの万年筆を僕に渡すよう父が遺言したのなら、ありがたく受け取らなければならないだろう。父は生前、僕に数えるほどしか贈り物をしなかった。当然、僕も父の誕生日や父の日には目をつぶって過ごした。するとこの最後の贈り物は、いかにも不器用な男が、人生の最後に静かな覚悟を決めてやり遂げた皆への愛情表現とも言えるわけだ。それに欧米におよそ書きやすい、まともなペンが流通していないことを考えると、この万年筆は読書家であった父の最後のあがきだったのかもしれない。

(第9回 了)

 

 

* 『故郷-エル・ポアル-』は来月から毎月06日に更新されます。

 

 

 

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