僕は書く、ひたすら書き続ける、小説ではなく物語を、仕事や国、言語や学校と呼ばれる大きな街の外で。「旅費もパンも持たないヒッチハイカー」のように、圧倒的で絶対的な文章を追い求めて。そして「完成図の予想できないジグソーパズルの切れ端が物語のテーブルに敷き詰められて」ゆく・・・。新しいタイプのモノカキ、小松剛生よる鮮烈な辻原登奨励小説賞受賞作!。
by 小松剛生
コカ・コーラ社が販売している瓶入りコーラの通常サイズには一体どれくらいのコカ・コーラが入れられているか、ご存知だろうか。
僕の目の前に今あるそれは190mlと記されている。
たったそれだけ!
コーラが好きな人であれば天を仰いで嘆くだろうし、別にそこまで好きでない人でも驚いてしまうであろう数値だ。
もっともこの数がもしかしたら満足されている量なのかもしれない。
常識というやつが僕から遠い場所にあることは25年間の歳月が教えてくれた。
それにしても190ml。
この量では顔を二回洗うのがやっとの量ではないのか。
顔を洗うとき、僕は蛇口をひねって両手で水を受け取りながら数秒間だけ待つことにしている。
その間も水はおかまいなしに僕の手から溢れて排水口へと流れていくのだけれど、その時間いったい僕は何をしているのだろうか。
さっさと顔を洗って事を済ませてばいいものを、ほんとにほんの一瞬、僕は何をするのも躊躇して冷たい水が僕の手からこぼれ落ちていくのを黙って眺めている。
禅の言葉だったっけか、確か「無心」というものがあった気がする。
もし違ってたらごめん。
良い文章を書くコツのひとつに、やたら資料を漁らないことというルールがある。
だから僕は何か書くときは机のうえに本を一冊も置かないことにしている。
もちろんルールはルールであって、破られることがあるかもしれないことは予め言っておく。
無心。
何も考えない時間をつくって、心のままに物事を見つめましょうという考えであったような気がするが、僕が一番無心になれる時間は顔を洗う直前の、両手を差し出している瞬間にある。
でもそのとき見える景色といえばふやけた皮がところどころ破けた、若者とは言えなくなったくせにろくに仕事もしない、汚い人間の手だけだ。
そんなもの見つめたところでちっとも愉快な気分にはならないし、だいいち水が流れてなければ僕の無心は行き所を失ってしまう。
見飽きた両手しか手に入らない無心であれば、僕にはそんなもの必要ないし、水を流しっぱなしにするのはちょっと無駄なことのように思える。
おそらくコーラで顔を洗わなければならない状況であれば、僕はそんなことしないだろう。
なにせたった190mlしかないのだ。
無心よりも顔を洗う回数のほうが欲しい。
僕は慌てて、流れるコーラをなるべくこぼさないよう慎重に、なおかつスピーディにそれを行うだろう。
ひょっとしたら三回ほど洗えるかもしれないけれど、顔を洗う達人でもない限り、慌てて洗った三回で汚れが落ちるほど僕の顔面は清潔じゃない。
コーラはどうやら顔を洗うにはあまり適さない水分のようだ。
どうしてだろう。
どうしてコカ・コーラ社は190なんていう数値を瓶の中に詰め込んだのだろう。
物は試し、とばかりに僕は用意されたコップにコーラを注ぐ。
190は瓶からグラスに移ってそれはちょうどグラスのだいたい7分目あたりで止まった。
なるほど、ひょっとしたら考え方がそもそも間違っていたのかもしれない。
コカ・コーラ社は好きで190という数字を設定したのではなく、そうせざるを得なかったのではないか。
原因はむしろコップの側にあったのかもしれない。
世界中で作られているロングドリンク用コップ(テキーラを飲むときによく使われるショットグラスや、お猪口のようなお賽銭程度の容器を除いたコップのことだ)は190mlであれば収まるサイズに作られているのではないか。
コーラが溢れてこぼれないようにコカ・コーラ社は190にしたのかもしれない。
コーラは水ではないのだから。
瓶入りコカ・コーラと向きあうことで僕は、少しくらいならこぼしても構わないものと、こぼしてはいけないものがあることを知った。
もちろんこぼしてはいけないからといって、こぼれたら死刑に処される可能性を心配する必要はない。
どんなものに例外はあるし、それは資料のルールが証明している。
ただこぼしてはいけないものをこぼしてしまったときの喪失感、そのショックは誰とも分かち合えないし、ひとりで抱え込むしかない種類のものだ。
人は生きている間にどれくらいのものをこぼしてしまうのだろうか。
どれくらい、その喪失感と付き合わなければいけないのだろうか。
人によっても違うだろうが、喪失感の孤独に嫌気が射したときに人が死ぬと考えたら、死んでいった人間たちはいったい何をこぼしてしまったのだろうか。
西暦2009年、東京大学でル・クレジオが講演をした。
ひとりの生徒が
「どうすればあなたのような作家になれるのですか」
と尋ねると彼は答えた。
「たくさん読んで、たくさん書くことです」
『親指ペニスの修業時代』という作品で、性に対するモラルに一石を投じた松浦理英子は遅筆で有名な作家だ。
彼女はこうも言っている。
「世間を舐めるのは構いませんが、文学を舐めないでください」
また、村上龍はコラムを連載している雑誌の中で書いている。
「今の若者たちを特に批判するつもりもないし、駄目だとも思わない。ただ私は言う。私は21歳のときに『限りなく透明に近いブルー』を書いたんだ、と」
ある客は新人のタクシードライバーに向かって叫んだ。
「お前は道を知らなすぎだ」
客が苛立つ気持ちもわかる。
もうかれこれタクシーは15分も六本木交差点の辺りをうろうろしている。
東京で15分という時間はあまりにも膨大な量だった。
コーラの190mlとはわけが違うし、客はヒッチハイクをするために六本木にやってきたわけでもない。
僕には彼ら、そして彼女らの言っていることがどれも同じに聞こえる。
同時によくわかる、気がする。
彼らの言葉は雨のように僕の心に突き刺さり、ゆっくりと、しかし確実に(この言い回しもどこかの小説で僕が覚えたものだ)、僕の中にある何かを冷やしてゆく。
雨はときどきではあるけど、しかし確実に(気に入った言葉を何回も使ってしまうのが僕の悪い癖だ)僕の頭上に降る。
忘れた頃にもそれは降るし、ときにはずっと降り続けるときもある。
問題はひとつ。
ヒッチハイカーにとって雨は最大の敵だ。
濡れた髪をそのままにしておけば風邪を引く危険が増すし、風邪を引いたヒッチハイカーを乗せたがる運転手はいない。
頭の中で傘を買うお金とその日のパンを買うお金を天秤にかける。
傘かパンか、いやいっそのことレインコートを買うというのはどうだろう。
安い傘はすぐに骨が折れてしまう。
レインコートであれば全身の濡れを防げるうえに骨が折れる心配をしなくて済む。
そういえばレインコートについて書いてばかりいる作家がひとり、いる。
吉田さん。
彼はある短篇に登場する、焼き鳥好きな先生にこんなことを言わせている。
「この世でいっとう哀しいのは語られることのない物語と、奏でられることのない音楽たちだ」
僕は彼の出す本であれば、傘もパンも捨ててお金を出すことだろう。
語られることのない物語はどこに行くのか、それは所有者が墓場まで抱えていく。
もし読みたいのであれば掘り起こすしかない。
残念ながら、世にある素晴らしい物語のほとんどが語られることなく、文章になることもなく哀しい存在になって墓場で眠っている。
それはこぼれないようにと、その人が両手でしっかりと抱えていたいような内容なのだろう、たぶん。
けれどその人を救ってくれる人はどこにもいない。
救われるのはいつだって何かをこぼす前の生きている人間だし、死者は何も語らない。
哀しい。
けれど、ときどきその事実はとても美しく感じられるから不思議だ。
感傷的になったとたん、文章というものは腐ったおろし玉ねぎのように嫌な臭いをはなつ。
冷蔵庫の中で強烈に主張するそれを僕は黙ってゴミ箱に放り込む。
この話の教訓はそれだ。
摩り下ろした玉ねぎは早めに食べたほうがいい。
(第10回 了)
* 『切れ端に書く』は毎月13日に更新されます。