この町には黒ヒョウがマスターをしているバーがある。お客はシャム猫にフクロウ、アライグマ、コウモリ夫妻といった動物たちで、ヒトは僕だけだ。でも僕はこのバーになじんでいる。フクロウが言うように、僕はヒトでヒモでもあるからだろうか。僕は少しだけ人間ではないのだろうか。この町に線路を地下に潜らせる再開発話しが持ち上がる。再開発、それは何を変えるのか・・・。寅間心閑の辻原登奨励小説賞受賞作!。
by 寅間心閑
三
「もうダメ、傘なんか役にたちゃしないよ」
バサバサッと派手に傘を畳み、オランウータンは「これは皆さんお揃いで。グッドタイミング」と笑った。
町の名士、と呼ばれるのに相応しいその賑やかな佇まいが、今まで店を覆っていた沈黙を一気に塗り替えてくれそうだ。黒ヒョウから手渡された大きなタオルでずぶ濡れの身体を拭きながら、ずっと絶え間なく喋り続けている。
「どうですか、雨だと客足が鈍るなんて言うけれど、ねえ。ここは人気店ですよ、もう満席じゃないですか。はい、タオル。ありがとう、助かりました。で、どうしようかな。とりあえず、いつものを頼みますよ」
そんなオランウータンの様子を横目で見て首を回すのはフクロウさんだ。やれやれ、という感じの苦笑い。
名士と長老はかなり長い付き合いだというが、あまりピンと来ない話だ。すぐに次の約束があるからと、十分ほどで店を出るオランウータンの後ろ姿を、「マラソンの給水所じゃないんだぞ」とからかうフクロウさん。そんな光景をよく見る。もちろん敵意も悪意もなく、兄が弟をからかう雰囲気なので、みんな遠慮なく笑っている。
普段から忙しいオランウータンは、ゆっくりと腰を落ち着けていることがあまりなく、枝から枝へと飛び移る要領で夜の店々を渡り歩いている。噂によると、ヒトが行く店でも飲んでいるらしい。一度、事の真相を確かめたところ、町の名士はあっさりと認めた。
「私はパイプなんですよ」
「パイプ?」
「ヒトの世界と、ヒト以外の世界。御存知でしょうが両方に出入りできるのは、とっても珍しいんですよ。だから私はパイプとなって、その二つをつないでいるんです。どうです? あなたにもその力があるみたいですから、私みたいになってみませんか?」
もちろん断った。オランウータンには「僕はヒトじゃなくてヒモですよ」と、ふざけた言い訳をしたが、理由は他にある。せっかくこの店に溶け込んでいるのに、変に目立つようなことをして、ぶち壊しにしたくない。ただ、それだけだ。
「何だかすいませんね、皆さんの話を途切れさせちゃって」
「いえいえ」酒を出しながら黒ヒョウが微笑む。
「今夜の議題は何ですか?」
「立ち退きですよ」げんなりした声のアライグマ。
「?」
「だからあれです。線路が潜って、道路が出来て、この店が立ち退かされちゃうって話です」
「ああ、なるほど、そうですか」
煙草を吸おうとしたが、どうやら雨で全滅だったらしく、黒ヒョウから一本貰ったオランウータンの声は場違いに弾んでいる。
煙をゆっくりくゆらせながら「実はですね……」と間を取ると、フクロウさんから「もったいつけずに早く言えよ」と声が飛んできた。別に気にする風もなく「まあまあ」と微笑んでいる姿から、僕は目が離せない。
「吉報かどうかは分かりませんけど、まあ聞いて下さいよ」
酒と煙草でやっと落ち着いたのか、いつもと変わらぬ賑やかな口調で名士は切り出した。
「じゃあ、もう皆さんはだいたい状況が分かってらっしゃる?」
「今、ずっとフクロウさんから教えてもらってました」
「では、大丈夫。間違いないですね」
そんなやり取りに、当の長老は顔をしかめ首を回す。
「実を言うと、少し前から各方面に声をかけてましてね、まあ色々と話を進めておりました。簡単に言えば、道路なんかいらないぞってことです。皆さん御存知のように、道路さえ作らなければ、ここだって立ち退かなくて済むんですから。ただほら、敵が敵でしょう? 慎重にやらなきゃ潰されちゃうんですよ」
オランウータンが発する「敵」とか「潰す」という言葉は、また僕たちの気持ちを盛り上げていった。戦意高揚、という単語がよぎる。ふとフクロウさんを見ると、グラスを持ったまま難しい顔をしていた。
「各方面って言いますと?」黒ヒョウが尋ねる。
「うん、まあ私なりに厳選したつもりなんですけど」
「かなり大勢なんですね」
「いや、そうでもないかな」
そう言ってオランウータンは実際に名前を挙げた。その並びを聞いて意外だと感じたのは僕だけではないらしく、また少し店内がざわつく。こんな時、口火を切るのはやはりアライグマだ。
「え? なんかヒトばっかりじゃないですか?」
そうだ。僕も、そして多分みんなも感じた違和感はそこだ。そんな雰囲気をすり抜けるようにして話は続く。
「そりゃ、そうですよ。マル電だって、国だって、区だって、結局やってるのはヒトでしょう。だったら我々よりも、同じヒトの声の方が届くじゃないですか、ねえ?」
最後の「ねえ?」は僕に向かっての言葉だった。
そうですね、と曖昧に答えようとした瞬間、フクロウさんが「で、何をやるんだよ」と話を急かす。
「運動ですよ、運動」
その答えに快哉をあげたのはアライグマだ。なんか面白そうじゃないですか、といううわずった声を誰も不謹慎だと注意したりはしない。
挙げられた名前の中には、聞き覚えのあるものもあった。音楽家や映画監督、実際の職業は分からないがテレビでコメンテーターをやるような文化人。それ以外はこの界隈の商店街の会長だったり、出馬経験のある活動家のヒトだと説明は続く。
一気に規模が大きくなりそうな話から誰も目を離せない。そう広くはない店内に溢れた熱気は、いまや逃げ場もなく天井に溜まっている。僕は我慢できずに呟いた。
「なんか、すごいですね」
その声を敏感に察知したオランウータンが「ね? いけそうでしょ? これから忙しくなりますよ」と笑みを洩らす。
「それで、具体的には何をするんですか」
先走った僕の言葉をからかったり、たしなめたりする雰囲気ではない。みんな、前のめりだ。唯一、落ち着いているのはフクロウさんと黒ヒョウだが、別にこの状況を嫌っているわけではなさそうだ。自分のペースを崩さず静観している、といったところだろうか。
「とりあえず目標は、三ヵ月後の選挙です。区長選、ね?」
オランウータンの視線につられ、一斉にみんなが僕の方を見る。たしかに選挙なんかするのはヒトだけかもしれないが、僕は一度も投票に行ったことがない。小声でそう告げると、フクロウさんだけが微笑んだ。
「まさか出馬するんですか?」黒ヒョウが怪訝な顔でオランウータンに訊く。
「私はヒトじゃないんだから出れませんよ」
「でも、選挙って……」
「今の区長は、道路を作ろうとしてるんです。平たく言えば、お上の忠実な手下。ね? 私たちとは考え方が違うんです。だから私たちと同じ考え、つまり道路なんか作らせないぞ、という意見のヒトに選挙に出てもらって、もちろん勝ってもらって、新しい区長になってもらうんです。私たちの声をお上に届けるんですよ」
フクロウさんの口から発せられた時とは、「オカミ」という言葉の質感が違う。不思議とそんなに怖くない。さっきまで怖がっていたのは、多分よく分からなかったからだ。暗い洞窟の一番奥にいるのがオカミだと思っていた。でも今は違う。
どうやらオカミは暗闇に潜んでいるわけではないらしい。距離も輪郭も存在の真偽も、もしかしたら確認できるのかもしれない。僕はそう期待した。確認さえできれば、意味のない恐怖など消えてしまうだろう。
黒ヒョウの店を存続させるため、町の名士・オランウータンを先頭にして、これからみんなでオカミに立ち向かっていく――。
その覚悟を確認したくて、結局僕は明け方まで店にいた。飲み過ぎないはずのジンなのに、相当飲んでしまったのだろう。かなり酔っ払ったまま、頼りない千鳥足で家路をたどる破目になった。
もちろん誰もがその場で覚悟を決め、今後について話し合いを続けた。雨音をかき消すほどの大声が飛び交い、次から次へと酒を飲み、ついには店の氷がなくなった。「こんなに繁盛するなら、立ち退きも悪くないな」と、珍しく不謹慎な冗談を飛ばすほど、黒ヒョウも酔っ払っていた。
オランウータンは他の店に移動しなかったし、いつも天井の配管にぶら下がっていちゃついているコウモリ夫妻も、みんなの酒臭い議論に加わっていた。シャム猫も我関せずと眠ったりはしなかったし、皮肉屋のイノシシでさえ話に茶々を入れたりはしなかった。
時間を忘れる、とはあんな状態を言うのだろう。記録的な大雨も、店を出る頃にはすっかりやんでいた。
変な熱気に包まれたまま帰宅し、そのまま玄関で眠ってしまったらしい。
何度か目が覚めると、僕のスニーカーや彼女のハイヒールが顔の近くに見えた。這って布団までたどり着こうとしたが、ジンが回りきった身体では無理だ。僕はうつ伏せでしか眠れない。
どうにか立ち上がれたのは正午過ぎ。
聞こえてくるテレビの音で時間が分かった。後ろめたく、頭が重く、ひたすら気まずい。その結果、厄介なことにイライラしている。悪いのは酒、ではない。酒を飲みすぎた自分だ。だから苛立ち、誰とも話したくない。
風呂場へと直行する途中、横目で部屋の様子をうかがうと、彼女はベランダで洗濯をしていた。数時間前までの大雨が嘘のように晴れている。彼女の横顔は逆光でちゃんと見えないが、どんな表情かはよく分かった。分かったから、僕は顔を背けた。気配も消したくて息を潜める。
昔、出会った頃、彼女は女優だった。
公演の度に赤字がかさむような弱小劇団の、しかも万年脇役だったが、たしかに女優だった。僕はひょんなことからそこの美術を任され、それがきっかけとなった。
恋のはじまりには、妙なスピードが付きものだ。世間の実態は分からないが、少なくとも僕にとっては。
何度か顔を合わせ、互いの名前を覚え、胸が張り裂けそうになり、とうとう二人きりで出かけ、終電の時間を忘れて会話と酒に溺れ、朝、本当に胸が張り裂ける。それが、恋のはじまりだ。
彼女ともそうだった。半月もかからなかった。
女優の卵と絵描きの卵は、ものすごいスピードで恋におちた。おちる、というのは正しい言い回しだと思う。上昇する時に、あんなスピードは出ない。ああなるのは、落下する時だけだ。
ひとつでも多くの共通点を探そうとして、僕たちは色々なものを互いに差し出した。今までの経験、少々余所行きの美意識、とっておきの胸の内。たまには隠しておくべき手の内さえ見せ合いながら、段々と共通点を増やしていった。
中でも一番重要だったのは、この町だ。
小劇場、アトリエ、ライブハウス、映画館、古着屋、一癖ありそうなカフェやバー。そんな建物が溢れるこの町に、二人とも憧れていた。同棲を決めた時、どこで暮らそうなんて悩む必要は一切なかった。正確には家賃の都合で、中心部からは一駅分ずれてしまったが、たいした問題ではない。先行きの見えない卵は競うようにして、憧れの町で恋におちていった。
二人の苗字が並んだ表札。この古いけれど日当たりだけは抜群の部屋で、いったい何枚彼女の絵を描いただろう。百枚、二百枚ではきかない。つまらないデッサンを入れれば千枚は超えるはずだ。
当時の僕は、美大に二回落ちた専門学生で、ほとんど学校には行かずバイトばかりしていた。しかも彼女と付き合ってからは、そのバイトさえさぼるようになってしまった。昔から足が向くのは、楽な方ばかりだ。
ある夏の朝、電話がきて僕はバイトをクビになった。
「色々と忙しそうだから、新しい子を雇ったよ」
何か言おうとしたが、言葉が見つからない。すぐ隣には口を開けて眠っている裸の彼女がいる。食べかけの宅配ピザや、返し忘れたビデオに囲まれたベッドの上で、僕は寝ぼけていた。
「今までの分はちゃんと払うから、来月取りに来てくれよ」
そう言って電話は切れた。切れてから、やっと言うべき言葉が見つかった。
「すいませんでした」
そんな一言すら出てこないほど、腐りきった僕を彼女は許してくれた。
「大丈夫、大丈夫」
冷房の効いた部屋で、裸のまま抱きしめながら耳元で囁いてくれた。あの瞬間、卵は割れてしまったのかもしれない。どちらかが、ではなく両方とも。
夕方になって謝りに行くと、店長に無言でジーンズを投げつけられた。今はもうない古着屋の店先で、僕はひどく汗をかいていた。すいませんでした、と言ったが当然聞いてはもらえない。それでもしつこく謝っていると、店長は怒りだした。何度か同じ言葉で怒鳴りつけられたが、よく思い出せない。ただ怖くなって、振り向きもせずに逃げ出した。少し先の電柱の陰で彼女は待っていて、また僕は許してもらった。
店長の顔や怒鳴り声、あの古着屋の名前や時給――。普段は忘れている遠い記憶と戯れているうち、いつの間にかシャワーを浴び終わっていた。もう洗うところなど残っていない。僕は静かに服を着て、うつむきながら部屋に戻る。
「遅かったじゃない」
刺々しい声への返答はなかなか見つからない。「ああ」とか「うん」とかモゴモゴ呟きながら、いつもの位置に座る。
「聞いてる? 遅かったじゃないって言ってるの。あんなひどい雨の中、どこにいたのよ?」
彼女は裸だった。これからシャワーに入るところらしい。キャバクラで働いている彼女は、いつも始発で帰ってくる。
黙秘を貫く僕に呆れたのか、それ以上は何も言わなかった。テレビは消されている。僕はうなだれたまま、彼女の足首を盗み見るしかない。中途半端に閉まったカーテンの隙間から、陽射しが差し込んでいる。外は晴れているんだろうか。ふと記憶の遠近感が崩れ、昨日の出来事を夢のように感じた。
長年、見続けてきた足首。自分の足首よりも、よく知っている足首。だから一歩踏み出しただけで、彼女が怒っているのは分かった。
そっと視線を上げる。足首、ふくらはぎ、太腿、お尻、腰、背中。振り向く気配がして、僕はまたうなだれる。咳ばらいが二度。ドアが閉まってから更に一度。また僕は「すいませんでした」と言えなかった。
シャワーの音を確認してからテレビを点ける。しばらくすると、眠気が襲ってきた。やはり玄関ではぐっすり眠れないらしい。布団を出そうかと思ったが、そこまでは図太くなれず、タンスにもたれながら押入れをただ眺めるだけだ。その上の天袋には、今まで描いた彼女の絵が押し込められている。入りきらなかった分は、全部実家へ送った。
僕は女優をやめてからの彼女を描いたことはない。やはり卵は同じ瞬間に割れてしまったようだ。
(第02回 了)
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